岡山後楽園の陰陽石について(長田氏制作のものを借用しました。)
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岡山後楽園の陰陽石について
日本三名園といわれる 「水戸の偕楽園」「金沢の兼六園」「岡山の後楽園」 が有名ですが、その他名高い名園が、日本国内に点在しています。
その殆どが昔の大名庭園です。その中の「岡山後楽園」も岡山藩主の池田光政によって「後楽園」が創設され、光政の跡を継いだ代々の藩主が、意志を継ぎ藩を豊かにする策が進められ、その効が奏して現在の「後楽園」が在る。

 国内にある日本庭園の石組には、神と仏がとにかく混在しており、「万物に神が宿る」とする信仰の伝統を引く日本人の庭に相応しいにぎやかさで、いくつもの「陰陽石」が組まれています。しかし、うっかりすると見過ごしてしまいます。その 「陰陽石」 がなぜ日本庭園に造られているのか、調べました。
   
江戸時代になって大名たちは、儒学の影響から中国で古くから起こった陰陽五行説を信じ、自分の庭園の中に子孫繁栄を願って「陰陽石」を置いた。
「陰陽石」とは、男性・女性それぞれの性に似た形の石を組み合わせた面白い石組みである。娯楽の少ない当時としては、気のおけない者同志これを眺めストレスを解消する場としたのではないだろうか。

この「陰陽石」は、江戸時代の大名庭園で大流行した。江戸時代の大名たちにとって、子孫繁栄はお家の存続に直結していただけに、世継は多ければ多いほど安心であった。

世継の有無の問題には、藩の大小は関係ない。平均寿命の短い時代であり、また流行病でいつ子供が亡くなるかもしれない。したがって、お家安泰、子孫繁栄を願って庭のあちこちに組まれた「陰陽石」。その作例は意外なほど多い。

紀伊徳川の出身で八代将軍になった「吉宗」と、何かと彼と対立した尾張藩七代藩主「宗春」は、二人ともまさか藩主になろうとは思ってもいなかった。
所詮生涯部屋住みと、人生に何の期待もしていなかったのが、継承者が次々に他界して、将軍職や藩主の役目が転がりこんできた。この様に子宝に恵まれたものが生き延びられた時代である。

岡山後楽園内には、陰陽和合の巨大な岩から小さな石で表現された「陰陽石」が、9 〜 10箇所ほどに作られています。「目立つ陰陽石」もあれば、目立たなくてうっかりすると見逃す「さりげない陰陽石」も在ります。
 以上が 「岡山後楽園」 内に在る「陰陽石」に関して調べて見ました。
「後楽園」へお出掛けの時には園内でごゆっくりご観賞下さい。

 岡山後楽園の代表的な「陰陽石」は、園内中央に在る唯心山の南麓に作られています。その陰陽石の名称が「おほほ石」と呼ばれています。
『写真集、岡山後楽園の陰陽石』はこちらです。

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